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京都 大徳寺 ぶらり散策 特別公開 金毛閣 へ 禅と茶の湯 千利休との関わり茶道具 大徳寺 紫野 一行書 掛軸 茶掛 の見分け方 査定ポイント わかりやすく解説

大徳寺 非公開エリアの山門 唐門 方丈 法堂と天井龍 の特別公開へ参加してまいりました。

茶道具の茶掛と言われる茶道具に大徳寺ゆかりの掛軸 一行書が あります。
大徳寺の管長 和尚の手造りの茶碗 茶杓なども良く見かけますが 茶道と大徳寺の関わりなど 紐解いていくと共に 茶掛である 後半に一行書の読み解き方や査定ポイントを 説明します。

京都 大徳寺の歴史
大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗の本山寺院。開山は宗峰妙超。妙心寺と共に応燈関派の拠点で、臨済宗大徳寺派大本山。関東祈祷所、十刹や五山になったこともあるが、後に下野。一休宗純や沢庵宗彭らが住した。紫衣事件の舞台となった。末寺・塔頭は大仙派、龍源派、龍泉派、真珠派に分かれる。境外龍翔寺に専門道場が設置されている(大徳僧堂)。山号は龍宝山。
1315年(正和4年)、あるいは1319年(元応1年)、赤松則村が宗峰妙超のために小寺を創建。1326年(嘉暦1年)に大伽藍が完成する。十刹となる。花園法皇と後醍醐天皇の南北両朝により、この寺は宗峰妙超の弟子筋のみが受け継ぐと認められ、一流相承制が確立する。応仁の乱で焼失するが、一休宗純の禅風と堺商人の後援で復興を遂げました。

大徳寺 特別公開区域の説明
特別公開区域

【重要文化財】三門「金毛閣」
三門とは空門、無相門、無作門の三解脱門のことを指します。大徳寺の三門は応仁の乱で焼け落ちた後、大永6年(1526)に一休和尚参徒の連歌師 宗長の寄進により、初層部分が完成されました。その60年後、千利休によって二層部分が完成し、金毛閣と名づけられました。楼上は広い一室で、釈迦如来像と、二大弟子像、さらには千利休が寄進した十六羅漢像が安置されています。天井や柱には長谷川等伯による雲竜図や迦陵頻伽(かりょうびんが)、仁王像などが一面に描かれていています。この楼上に草鞋を履いた利休像を安置したことで秀吉の怒りを買い、利休の切腹の一因になったのはあまりにも有名です。
【重要文化財】三門「金毛閣」
【重要文化財】三門「金毛閣」


【重要文化財】仏殿
大徳寺一世 徹翁和尚により建てられましたが、応仁の乱までに二度焼失し、文明11年(1479)に一休和尚の参徒、尾和宗臨により再建されました。さらに寛文5年(1665)那波常有が再建し、現在に至ります。御本尊の釈迦如来像は四代将軍徳川家綱公が寄進したもので、高さは五尺三寸(約160センチ)あります。建築様式は典型的な禅宗様で、天井に描かれた飛天(天女)は狩野元信筆と伝わります。

【重要文化財】法堂内狩野探幽筆『雲龍図』
法堂(はっとう)は、禅宗寺院において長老が修行者に法を説くための建物で、教えを継ぐことを重要視する禅宗にとっては非常に神聖な場所です。ここによく描かれるのが龍。龍は仏法を守護し、法の雨(仏法の教え)を降らせると共に、水を司ることから「火災から寺院を守る」ものでもあります。大徳寺法堂の『雲龍図』は狩野探幽が35歳のときに描きました。方丈障壁画を描いた後年の作風とは異なり、力強い筆遣いで描かれ、見るものを圧倒します。真下で手を叩くと龍が鳴いたように響くことから「鳴き龍」とも称されます。
【重要文化財】法堂内狩野探幽筆『雲龍図』
【重要文化財】法堂内狩野探幽筆『雲龍図』
【国宝】唐門


大徳寺の唐門は別名「日暮門」といわれ、国宝に指定されています。桃山建築の代表作で聚落第の遺構と言い伝えられ、桃山の三唐門(本願寺、豊国神社)の一つに数えられています。彫刻を観賞しているだけで一日暮れてしまう、という所から「日暮門」と名付けられた様です。平成11年から14年までの3年間をかけて修復を施し、再び美しく当時の輝きを取り戻しました。麒麟や孔雀、牡丹、波など、様々な動植物や天然物の彫刻が約40種類、色鮮やかに施されています。このような彫刻に出てくるものは当時の障壁画などにもみられるもので、絵画の立体的表現ともいえるものです。

千利休 切腹
大徳寺とつながりが深かった利休は、古くなった大徳寺の山門 金毛閣を改修するにあたり資金援助を行いました。これに恩義を感じた大徳寺の住職・古渓宗陳は、感謝の意を表すために利休の木造を作り、山門の上に安置しました。

ところが、これに激怒したのが時の将軍 秀吉です。秀吉は、山門の上に利休の像があるということは、貴人たちが山門をくぐった際、利休が貴人の頭を踏みつけているのと同じであり、非常に無礼な行為だと主張します。秀吉の理不尽な主張でしたが これに利休が一切弁明することがなかったため、そのまま切腹を命じられる事になりました。この事件は 茶の湯の世界にも 大きな影響を 与えた事でしょう。

千利休が切腹させられた理由には、以下の説もあります。

石田三成との政治的立場の違い
利休が茶器の売買で暴利をむさぼっていた
利休の娘を秀吉に仕えさせるのを拒否した
真相は定かではありません

ちなみに 現在は 明治時代に寄進された雪路を行く草鞋を履いた利休を描写した立像の木彫が 金毛門の二階に安置されているようです。この他にも 十六羅漢の像などが 安置されているそうです。

(感想)
参加費は 二千円20人一組の解説員付きのツアーでしたが とても分かり易くて丁寧な説明をしていただきました。普段は踏み入ることのできない区域に歴史を感じながらの散策 千利休が切腹する要因になった金毛閣の下を潜り抜けるなど特別な体験に感動いたしました。

大徳寺 一行書 とは

一行書は縦長の一紙に禅語や漢詩の中から抜いた五言、七言などの佳句を揮毫したもの。短く簡潔な内容で、比較的に理解しやすいことから求める者が多く、書く側の禅僧や書家も、一文字一文字を大書できるので、ダイナミックな表現ができる形式として好まれました。早くは鎌倉時代の作品があり、室町時代になると、個性溢れるものが多く見られます。江戸時代初期には、沢庵宗彭、江月宗玩、清巌宗渭などの大徳寺歴住のものが “大徳寺もの”と呼ばれて茶室の床飾り、茶掛けとして人気を博しました。
江月は大徳寺156世の住持(住職)で、堺の豪商津田宗及の子だけあって茶も嗜み、松花堂昭乗とは茶友であるばかりか書画の合作も多く、書画の鑑定にも長けて「墨蹟之写」42冊を残しています。

一行書の査定ポイント

まず大切なのは 誰が 書いた文字なのかという事です。
大徳寺の一行書と言っても大徳寺の歴史が古いだけに 多くの僧侶がおられます。また 一行書など掛軸から手造り茶碗や茶杓といった茶道具の作品も多く 有名な一休和尚の古作の希少な物から現代作の物まで 多種におよびます。

一行書の見分け方

一行書の中央には 五文字や七文字の禅語が 書かれております。この左端に 紫野からはじまる 作者の銘が 書かれておりますので 誰の作品であるかは このサインを 見れば誰の作品であるかがわかります。

しかし 大徳寺の一行書にも たくさんの贋作があり有名な和尚ともなると高額な値段 歴史的にも価値ある作品となりますので この見極めは 難しく 多くの真物に触れておく必要があります。
贋物という事では ないのですが 印刷物もありますので 有名な作品になるほど まずは印刷なのか肉筆なのかの見極めが 大切です。

肉筆である時は サインを見て 誰の作品であるかを 確認します。

掛軸の箱

掛軸の査定する時 共箱である事は とても大事な査定ポイントです。
共箱とは 作者が 作品を世に出す時に 作品のために作った専用の箱 この蓋の裏などに作者のサインを 付けて一つの作品として完成します。
共箱は 鑑定書の役割を果たすと共に 作品の衣であり これを 失う事は 査定金額にもかなり影響します。

一行書のサインと箱蓋のサインが 一致しているかを チェック

作品が 肉筆であり 一行書のサインと箱のサインが 判子など 一致していれば 大体は 作品として真物かと判断できます。

一行書 何が書いてあるのか?

一行書の立て物なら禅語の五字 七文字といった漢字が 書かれてあり横物でしたら二文字などの漢字が書かれています。
これは、禅問答の答えであり禅の世界では 意味深い ありがたい言葉なのです。

樹木希林さんの映画にもあります。

日日是好日 禅語の一行書の中でも 季節問わず掛けやすく人気の文字です。

意味は「来る日も来る日も、楽しく平和なよい日が続くこと。一日一日を大切に生きる心構え」というところです。
有名な禅語とエピソード

達磨といえば 「不識」

菩提達磨(ぼだいだるま)は、6世紀初頭に禅をインドから中国へ伝えた高僧です。禅観はインドに由来しますが、禅宗は中国で独自に起こり発展するのです。そこで、達磨は「初祖」と称され、存在そのものも伝説とされていますが、今に伝わるエピソードも禅宗では大切な教えの一つとなっています。
インドから海路、中国まで渡った達磨を、当時大変喜び、熱心に迎え入れた王がいました。梁(りょう)の武帝(ぶてい)です。武帝は仏法に深く帰依し、世間から「仏心天子(ぶっしんてんし)」と崇められていました。

ある時武帝は、都がある金陵(現在の南京)の宮中に達磨を招き、質問をします。
「朕、寺を起(た)て僧を度(ど)す。何の功徳かある」
「私はこれまでにたくさんの寺を建立し、僧侶を育ててきた。私には将来、どれだけ大分の幸福がもたらされるか?」と。
この問いには、おそらく次のような意図が込められています。武帝は、仏教の本場であるインドから来た達磨という高僧によって、自分自身の善行に対しての果報を、確証して欲しかったのでしょう。しかし、そんな思惑は達磨の衝撃的な返答によって、完全に打ち砕かれてします。
達磨は「無功徳(むくどく)」と、突っぱねるのです。武帝の行いの、どれもこれも果報を受けられるものではない。功徳欲しさに行う善行が何の役に立つであろうか。褒められよう、認められようという物欲が、せっかくの行いを悪行にしてしまうというのです。
要するに武帝の行いは、あくまでも利己的なものにすぎない。自分の欲望を満足させるだけの行為を、「信心」という名で美化しようとしていることを、達磨は見抜いていたのです。
望みの答えを聞き得なかった武帝は、問いを重ねます。「禅の真髄とはいったいどのようなものか?」と。それに対して達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう)」と喝破(かっぱ)するのです。

「廓然」とは、からりと開けた、何のとらわれもない無心の境地を表したものです。その無心のところには、聖なるものも、凡なるものも、何も比べるものは無いと言い放つのです。自分が信じて求めてきた仏法というものに、「聖なるもの」が無いと言われた武帝は、どうしても納得がいきません。今までの行いの全てを否定されてしまったからです。そして、そんな達磨に対して「では、私の前にいるお前は何者だか?」と尋ねるのです。

達磨は一言、答えます。「不識(ふしき)」と。

この「不識」は「そんなもの、しらない」という意味の言葉ですが、禅での解釈はそう簡単にはいきません。達磨が「不識」と言ったのは、武帝の心にある「執着」というものを捨てさせるためだったのです。

この様に ただ二文字 掛軸に 「不識」と書いてあるだけで 禅語を 理解している者にとっては この達磨のエピソードが思いだされ 己を律する事になるのです。

一行書や 禅語には 深い意味があり この文字を 理解して楽しむ事を おすすめします。


大徳寺 和尚一部ご紹介

大徳寺156世 江月宗玩 1574(天正2)年~1643(寛永20)年

大徳寺156世江月宗玩は津田宗及の次男として生まれました。法諱を宗玩、道号を江月、自号を欠伸子・懜(慒)袋子・赫々子、勅賜号を大梁興宗禅師といいます。幼少より大徳寺111世春屋宗園に師事し、15歳で剃髪して「宗玩」を名乗りました。筑前国福岡藩初代藩主・黒田長政の外護を受け、博多・崇福寺の復興に協力しました。1606(慶長11)年、長政の請により龍光院を建立しました。1610(慶長15)年、大徳寺156世住職に就任しました。1611(慶長16)年に春屋宗園の逝去により、大徳寺塔頭・龍光院を継いで、「江月」と号しました。1612(慶長17)年、小堀遠州の請により龍光院内に孤篷庵を建立しました。紫衣事件では大徳寺147世玉室宗珀や大徳寺153世澤庵宗彭と幕府に抗弁しますが、一人許されて配流の澤庵や玉室の赦免に尽力しました。孤篷庵や寸松庵の開祖で松花堂昭乗とも親交がありました。茶の湯を父や遠州に学んで解した点では澤庵以上のものがあり、当代一流の文化人として墨蹟は澤庵や大徳寺170世清巌宗渭と共に人気を博しました。門下に安室宗閑、大徳寺181世江雪宗立、大徳寺184世江雲宗龍、大徳寺195世翠巌宗珉、黒田庄兵衛達が知られます。父より伝来の名物道具を龍光院に伝えました。

大徳寺181世 江雪宗立 1595(文禄4)年~1666(寛文6)年

大徳寺181世江雪宗立は堺に生まれました。法諱を宗立、道号を江雪、号を破鞋子・枯髏子・不如無・不如子、勅賜号を大綱智海禅師といいます。沢庵宗彭に随侍し、更に江月宗玩の法を嗣ぎ、竜光院第一頭を務めました。1644(寛永21)年、大徳寺181世住持に就任しました。山内に「看松院」を開創しました。1647(正保4)年、初代秋月藩主の黒田長興(ながおき)公に招かれ、「古心寺」を開山しました。1651(慶安4)年、東海寺輪番職に就任しました。更に南宗寺16世住持を就任し、1656(明暦2)年に十境と諸堂の名を定め、題書を執筆しています。

大徳寺184世 江雲宗龍 1599(慶長4)年~1679(延宝7)年

大徳寺184世江雲宗龍は小堀遠州の甥(一説に子とも)として山城国に生まれました。法諱を宗龍、道号を江雲、号を任運子・ノヘ子・罔両子・之乎者、勅諡号を円慧霊通禅師といいます。遠州と親しかった孤篷庵の開山・江月宗玩に師事し、大徳寺塔頭・孤篷庵1世住職、1648(慶安元)年に大徳寺184世住職に就任しました。大徳寺塔頭・龍光院、東海寺輪番、近江小室孤篷庵、近江西光寺、筑前崇福寺住職を務め、当代の文化人と親しく交わりました。千宗旦が息子である仙叟宗室を前田家へ仕官する為に江雲を通じ、遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に記されています。

大徳寺273世 大心義統 1657(明暦3)年~1730(享保15)年

大徳寺273世大心義統は京都に生まれました。俗姓を下村、法諱を義統、道号を大心、号を蓮華童子・巨妙子・小心子・金剛童・蓮華庵といいます。大徳寺218世天倫宗忽に師事し、門下に表千家6代覚々斎宗左や裏千家6代泰叟宗室が知られています。1706(宝永3)年、大徳寺273世住職に就任しました。考証学者として知られており、著作に『正燈世譜』、『宝山外志』、『諸宗儀範』、『東海遺珠』、『黒業油薪』等があります。

大徳寺418世 宙宝宗宇 1760(宝暦10)年~1838(天保9)年

大徳寺418世宙宝宗宇は京都に生れました。法諱を宗宇、道号を宙宝、号を洛陽人・一獃・松月老人・松月叟・破睡、勅賜号を大光真照禅師といいます。大徳寺416世則道宗軌に師事しました。1807(文化4)年、大徳寺418世住職に就任しました。次いで大徳寺塔頭・芳春院13世住職、東海寺輪番に就任しました。晩年は芳春院内に松月庵を営み、これに退隠して茶の湯三昧を楽しみました。1836(天保7)年、仁孝天皇より大光真照禅師の号を賜りました。近世後期大徳寺を代表する能書家として詩偈や書に優れ、「歴代住持中の名筆」とも称されて遺墨も多く伝来しています。

大徳寺435世 大綱宗彦 1772(安永元)年~1860(安政7)年

大徳寺435世大綱宗彦は京都に生まれました。法諱を宗彦、道号を大綱、号を空華室・昨夢・向春庵といいます。大徳寺409世融谷宗通に師事し、1820(文政3)年、大徳寺435世住職に就任しました。裏千家11代玄々斎宗室、表千家10代吸江斎宗左、武者小路千家7代以心斎宗守、松村宗悦達と親交がありました。茶の湯に造詣が深く、文芸に秀でた事から懐紙や短冊を始めとして遺墨も多いです。大徳寺塔頭・黄梅院14世を務めました。日記『空華室日記』や和歌集『大綱遺詠』等が知られています。

大徳寺503世(大徳寺9代管長) 瑞巌宗碩 1879(明治12)年~1965(昭和40)年

大徳寺503世瑞巌宗碩は岐阜県大垣に生れました。姓を後藤、法諱を宗碩、道号を瑞巌、室号を蔭涼軒といいます。荒尾の円成寺全識について得度しました。1929(昭和4)年、円成寺住職に就任しました。1931(昭和6)年、妙心寺塔頭・東海庵住職に就任しました。1934(昭和9)年、臨済宗大学(現:花園大学)学長に就任しました。1946(昭和21)年、妙心寺615世住職に就任しました。1947(昭和22)年、大徳寺503世(大徳寺9代管長)住職に就任しました。裏千家15代鵬雲斎宗室の名付け親としても知られています。

大徳寺511世 大亀宗雄 1899(明治32)年~2005(平成17)年

大徳寺511世大亀宗雄は大阪府に生まれました。姓を立花といいます。1921(大正10)年、臨済宗大徳寺派南宗寺で得度しました。1931(昭和6)年、大徳寺別院・徳禅寺住職に就任しました。1953(昭和28)年、大徳寺宗務総長に就任しました。1963(昭和38)年、大徳寺最高顧問に就任しました。1968(昭和43)年、大徳寺511世住職に就任しました。1972(昭和47)年、大徳寺山内に如意庵を再興しました。1979(昭和54)年、奈良大宇陀に松源院を再建しました。1982(昭和57)年、花園大学学長に就任しました。池田勇人・福田赳夫両元首相や、松下幸之助を始めとする政財界人とも親交がありました。茶道の造詣が深く、指導を行った陶芸家に杉本貞光が知られています。

大徳寺512世(大徳寺12代管長) 浩明宗然 1913(大正2)年~1995(平成)7年

大徳寺512世浩明宗然は福岡県に生まれました。姓を浜(後に方谷)、法諱を宗然、道号を浩明、室号を桃源室といいます。1928(昭和3)年、崇福寺の小南老師と法縁を結びました。1929(昭和4)年、福岡県糸島・安養寺の方谷貫道について得度しました。1939(昭和14)年、相国僧堂に掛搭しました。相国寺の大津櫪堂に参禅して崇福寺101世住職に就任しました。安養寺住職に就任しました。1948(昭和23)年、花園大学講師に就任しました。1966(昭和41)年、大徳寺512世(大徳寺12代管長)住職に就任しました。1980(昭和55)年、瑞雲寺に閑栖しました。

大徳寺515世 誡堂宗省 1898(明治31)年~1984(昭和59)年

大徳寺515世誡堂宗省は姓を藤井といいます。大徳寺塔頭・芳春院22世住職、大徳寺塔頭・三玄院住職を務めました。戦後より瑞巌宗碩、歓渓紹忻、雪窓宗甫達と大徳寺復興に尽力し、京焼陶工を指導して紫野焼復興に功績を示しました。

【大徳寺管長一覧】

開山 宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう)-(〜1338) 56才。(興禅大燈国師・高照正燈国師・大慈雲匡眞国師・弘鑑常明国師・円満浄光国師)

大徳寺 1世 徹翁義亨 (てつとうぎこう)-(〜1369) 75才。(大祖正眼禅師・天応大現国師)
大徳寺 2世 令翁宗雲 (れいおうそううん)
大徳寺 3世 愚翁宗碩 (ぐおうそうせき)
大徳寺 4世 虎渓道壬 (こけいどうじん)-(〜1377)
大徳寺 5世 平泉道均 (へいせんどうきん)
大徳寺 6世 蒋山任禎 (しょうざんにんてい)
◇大徳寺 7世 言外宗忠 (げんがいそうちゅう)-(〜1390) 76才。(密伝正印禅師)
大徳寺 8世 卓然宗立 (たくねんそうりゅう)-(〜1385)
大徳寺 9世 法雲操堂 (ほううんそうどう)
大徳寺 10世 明叟   (めいそう)
大徳寺 11世 徳翁宗碩 (とくおうそうせき)
大徳寺 12世 鄧林宗棟 (とうりんそうとう) 松源寺。
大徳寺 13世 大象宗嘉 (だいぞうそうか)
大徳寺 14世 大器   (だいき)
大徳寺 15世 南周   (なんしゅう)
大徳寺 16世 竺翁   (ちくおう)
大徳寺 17世 大模宗範 (たいもそうはん) 見性寺。
大徳寺 18世 東源   (とうげん)
大徳寺 19世 乾用宗梵 (けんようそうはん)
大徳寺 20世 季嶽妙周 (きがくみょうしゅう)
大徳寺 21世 香林宗簡 (こうりんそうかん)-(〜1453) 南禅寺真乗院 開祖。
◇大徳寺 22世 華叟宗曇 (けそうそうどん)-(〜1428) 77才。(大機弘宗禅師) 禅興寺。
大徳寺 23世 巨嶽   (こがく)
大徳寺 24世 椿巌宗壽 (ちんがんそうじゅ)
大徳寺 25世 性才樗菴 (しょうさいちょあん) 南禅寺正眼院。
◇大徳寺 26世 養叟宗頤 (ようそうそうい)-(〜1458) 83才。(宗慧大照禅師)
大徳寺 27世 明遠宗智 (みょうおんそうち) 尼崎 広徳寺。
大徳寺 28世 無言   (むごん)
大徳寺 29世 璉江   (れんこう)
大徳寺 30世 日照宗光 (にっしょうそうこう)
大徳寺 31世 滅崖宗興 (めつがいそうこう)
大徳寺 32世 格堂祖越 (かくどうそえつ)
大徳寺 33世 季東宗溟 (きとうそうめい)
大徳寺 34世 燈菴玄全 (とうあんげんぜん) 守禅庵。
大徳寺 35世 一洲宗藝 (いっしゅうそうげい)
大徳寺 36世 日峯宗舜 (にっぽうそうしゅん)-(〜1448) 88才。(昌昕)
大徳寺 37世 足庵宗鑑 (そくあんそうかん)
大徳寺 38世 惟三宗叔 (いさんそうしゅく)
大徳寺 39世 義天玄承 (ぎてんげんしょう)-(〜1462) 70才。(大慈慧光禅師)
◇大徳寺 40世 春浦宗熈 (しゅんぽそうき)-(〜1496) 88才。(正続大宗禅師・巣菴)
大徳寺 41世 雪江宗深 (せつこうそうしん)-(〜1486) 79才。(仏日真照禅師)
大徳寺 42世 體調   (たいちょう)
大徳寺 43世 顯室   (げんしつ)
大徳寺 44世 柔仲宗隆 (じゅうちょうそうりゅう)
大徳寺 45世 岐庵宗揚 (ぎあんそうよう)
大徳寺 46世 景川紹隆 (けいせんじょうりゅう)-(〜1477) 76才。(本如実性禅師) 龍泉庵。
◇大徳寺 47世 一休宗純 (いっきゅうそうじゅん)-(〜1481) 88才。(狂雲子・夢閨・瞎驢・国景・曇華)
大徳寺 48世 晦翁宗昭 (まいおうそうしょう) 祐徳寺。
大徳寺 49世 芳蔭   (ほういん)
大徳寺 50世 泰叟宗愈 (たいそうそうゆ)-(〜1479) 51才。
大徳寺 51世 特芳禪傑 (とくほうぜんけつ)-(〜1506) 88才。(大寂常照禅師) 龍安寺・妙心寺。
大徳寺 52世 悟渓宗頓 (ごけいそうとん)-(〜1500) 85才。(大興心宗禅師・仏徳広通国師)
大徳寺 53世 東陽英朝 (とうようえいちょう)-(〜1504) 77才。(大道真源禅師)
大徳寺 54世 一溪宗統 (いっけいそうとう)-(〜1491)
大徳寺 55世 西浦宗肅 (せいほそうしゅく)
◇大徳寺 56世 実伝宗真 (じつでんそうしん)-(〜1507) 74才。(仏宗大弘禅師)
大徳寺 57世 天釋禪彌 (てんしゃくぜんみ)
大徳寺 58世 桃蹊宗仙 (とうけいそうせん)
大徳寺 59世 椿叟宗壽 (ちんそうそうじゅ)-(〜1504) 64才。
大徳寺 60世 天縦宗受 (てんじゅうそうじゅう)-(〜1512) (寂光大照禅師)
大徳寺 61世 天琢宗球 (てんたくそうきゅう)-(〜1502) 66才。
大徳寺 62世 仁濟宗恕 (にんさいそうじょ) (本覚霊照禅師)
大徳寺 63世 悦堂宗懌 (えつどうそうえき)
大徳寺 64世 桂菴嫩  (けいあんどん) 松源寺。
大徳寺 65世 玉浦宗珉 (ぎょくほそうみん)-(〜1519)
大徳寺 66世 獨秀乾才 (どくしゅうけんさい)-(〜1514) (法智普光禅師)
大徳寺 67世 大機竺  (だいきちく)
大徳寺 68世 鄧林宗棟 (とうりんそうとう)-(〜1522) 70才。
大徳寺 69世 興宗宗松 (こうそうそうしょう)-(〜1522) 78才。(大猷慈済禅師)
大徳寺 70世 陽峯宗韶 (ようほうそうしょう)-(〜1512) 83才。(匡宗霊慧禅師・自適)
大徳寺 71世 瑞翁宗縉 (ずいおうそうしん)
大徳寺 72世 東溪宗牧 (とうけいそうぼく)-(〜1517) 64才。(仏慧大円禅師・鉄牛子・何似生・閑々子)
大徳寺 73世 東海宗朝 (とうかいそうちょう)-(〜1518) 64才。
大徳寺 74世 竺堂桂  (ちくどうけい)
大徳寺 75世 雪岫瑞秀 (せっしゅうずいしゅう)
◇大徳寺 76世 古嶽宗亘 (こがくそうこう)-(〜1548) 84才。(仏心正統禅師・正法大聖国師・生茗・茗波・夕巣庵) 大仙院。
大徳寺 77世 廉叟忠謙 (れんそうちゅうけん)-(〜1525) 64才。
大徳寺 78世 一宗紹麟 (いっそうしょうりん)-(〜1516) 62才。
大徳寺 79世 悦溪宗忢 (えつけいそうご)-(〜1525) 62才。(仏照大鏡禅師)
大徳寺 80世 古澗宙  (こかんちゅう)
大徳寺 81世 玉英宗冏 (ぎょくえいそうけい)-(〜1534)
大徳寺 82世 龍江宗翔 (りゅうこうそうしょう)-(〜1522) 74才。
大徳寺 83世 以天宗淸 (いてんそうせい)-(〜1554) 83才。(正宗大隆禅師・機雪)
大徳寺 84世 貞叔宗廉 (ていしゅくそうれん) 松源寺。
大徳寺 85世 千林宗桂 (せんりんそうけい)-(〜1543) 68才。
大徳寺 86世 小溪紹怤 (しょうけいじょうふ)-(〜1536) 62才。(仏智大通禅師・清拙道人)
大徳寺 87世 休翁宗萬 (きゅうおうそうまん)-(〜1534) 64才。(大伝仏燈禅師)
大徳寺 88世 伝庵宗器 (でんあんそうき)-(〜1533) 51才。(懶驢)
大徳寺 89世 月浦玄珠 (げっぽげんしゅ)
◆大徳寺 90世 大林宗套 (だいりんそうとう)-(〜1568) 89才。(仏印円證禅師・正覚普通国師) 【利休】
大徳寺 91世 徹岫宗九 (てっしゅうそうきゅう)-(〜1556) 77才。(仏徳大用禅師・普応大満国師)
大徳寺 92世 玉堂宗條 (ぎょくどうそうじょう)-(〜1561) 82才。(仏徳大輝禅師)
大徳寺 93世 清菴宗胃 (せいあんそうい)-(〜1562) 79才。(広徳正宗禅師・唖羊子・一畒子)
大徳寺 94世 天啓宗イン(垔欠) (てんけいそういん)-(〜1551) 66才。(大智仏勝禅師)
大徳寺 95世 大室宗碩 (だいしつそうせき)-(〜1560) 68才。(東光智證禅師)
大徳寺 96世 謹甫宗テイ(王貞) (きんぽそうてい)
大徳寺 97世 龍谷宗登 (りゅうこくそうとう) 74才。
大徳寺 98世 春林宗俶 (しゅんりんそうしゅく)-(〜1564) 77才。(仏通大心禅師・咄々斎)
大徳寺 99世 松裔宗佺 (しょうえいそうせん)-(〜1533) 61才。
大徳寺100世 泰嶽宗康 (たいがいそうこう)
大徳寺101世 雲叔宗慶 (うんしゅくそうけい)-(〜1566) 72才。(仏心広通禅師) 再住。
大徳寺102世 江隠宗顯 (こういんそうけん)-(〜1561) 56才。(円智常照禅師・破沙盆・寒蝶子・福壽)
大徳寺103世 和溪宗順 (わけいそうじゅん)-(〜1576) 81才。(徳光真照禅師・一逕)
大徳寺104世 華菴宗榮 (かあんそうえい)-(〜1564) 瑞峯院。
大徳寺105世 怡雲宗悦 (いうんそうえつ)-(〜1589) (心證慈照禅師・霊源大龍国師) 瑞峯院。再住。
大徳寺106世 大歇宗用 (たいけつそうよう)-(〜1559) 72才。(瞎馿子)
◆大徳寺107世 笑嶺宗訢 (しょうれいそうきん)-(〜1583) 79才。(祖心本光禅師・喝雲子) 【利休】
大徳寺108世 玉叟宗璋 (ぎょくそうそうしょう)-(〜1560) 81才。
大徳寺109世 督宗紹董 (とくそうじょうとう)-(〜1575) 63才。(蹇驢道人) 法華寺・普門寺・長松寺。
大徳寺110世 南岑宗菊 (なんしんそうきく)-(〜1568)
◆大徳寺111世 春屋宗園 (しゅんおくそうえん)-(〜1611) 83才。(朗源天真禅師・大宝円鑑国師・一黙子) 再住。 【宗旦】
大徳寺112世 玉仲宗琇 (ぎょくちゅうそうしゅう)-(〜1604) 83才。(仏機大雄禅師・闡提子・休々子)
大徳寺113世 明叟宗普 (めいそうそうふ)-(〜1590) 75才。(真如広照禅師)
大徳寺114世 大岫宗初 (だいしうそうしょ)-(〜1574)
大徳寺115世 南英宗頓 (なんえいそうとん)-(〜1582) 正受院・大安寺。再住。 
大徳寺116世 萬仭宗松 (ばんじんそうしょう)-(〜1577)
◆大徳寺117世 古渓宗陳 (こけい そうちん)-(〜1597) 66才。(大慈広照禅師・蒲菴) 【利休】
大徳寺118世 梅隠宗香 (ばいいんそうこう)-(〜1589) 66才。祐徳寺・祐泉寺。
大徳寺119世 眞叔宗楨 (しんしゅくそうはい)-(〜1587) 大智寺。
大徳寺120世 咲隠宗听 (しょういんそうきん)-(〜1586) 瑞峯院・瑞光院。
大徳寺121世 明叔宗哲 (みょうしゅくそうてつ)-(〜1605) 77才。(霊證普光禅師・宿蘆子・齯庵) 福源寺。
大徳寺122世 仙嶽宗洞 (せんがくそうとう)-(〜1595) 51才。(無底籃) 海眼庵。
大徳寺123世 竹澗宗紋 (ちくかんそうもん)-(〜1599) 73才。
大徳寺124世 先甫宗賢 (せんぽそうけん)-(〜1601) 75才。(法龍大源禅師) 昌林院。
大徳寺125世 太素宗謁 (たいそそうえつ)-(〜1594) 62才。(臥牛) 正受院。



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