後藤庄三郎とは 橋本庄三郎 (はしもと-しょうざぶろう)は、のちに後藤庄三郎(ごとう-しょうざぶろう)と改名する、江戸時代初期における金細工の名門・後藤家の当主となります。
代々「後藤庄三郎」と称しますが、ここでは初代とされる後藤庄三郎光次をご紹介してみます。
後藤庄三郎光次は、もともと橋本庄三郎と言う名前にて1593年に徳川家康に謁見しています。
もとの出身は美濃の加納城主・長井利氏(長井藤左衛門利氏)の末裔とも言いますが、詳細は不明です。
いずれにせよ、庄三郎は京都における室町幕府以来の金細工・後藤家の職人として働いていました。
金細工の腕はピカイチで、後藤徳乗に才能を認められて、徳川家康から呼び出しを受けた際に、橋本庄三郎が代理人として江戸城に赴きました。
後藤徳乗とは
没年:寛永8(1631)
生年:天文19(1550)
桃山・江戸前期の彫金工。江戸幕府の大判座頭人。後藤家4代目光乗の嫡男。京都生まれ。幼名を源次郎,父の死後嫡流通称の四郎兵衛の名を継いだ。幼少時に祖父乗真(後藤家3代目)が戦死したため,光乗一家は九州に移ったが,元亀2(1571)年に帰京し,家業の彫金業を再興した。豊臣秀吉に仕え,天正10(1582)年に判金改めと分銅役の要職をまかされ,250石を支給された。一方家業の方でも,美濃彫りや白銀工などを管理しながら,その典雅な作風で,当時京都に新興していた刀工の埋忠明寿家と並ぶ後藤細工所の基礎を築きあげた功績は大きい。江戸幕府になってからは一時不遇だったが,弟長乗(分家して勘兵衛家を創始)の労により長男栄乗と共に徳川家康,秀忠に大判座頭人として仕えた。長男栄乗は6代目を,3男顕乗は7代目を継承し,4男琢乗と5男休乗はそれぞれ別家を創始した。
古銅とは 古代の銅器、またそれを写した銅を主体にした錫・鉛の合金です。